ここは 「まほろば書簡 第12号」
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1999年 8月 1日 作成




まほろば書簡 第12号            1991年 6月 1日 発行



 私と協力隊
                              清水 悟
 協力隊?この言葉を初めて聞いたのは、大学在学中に同じ研究室の仲間からでした。彼の同級生が何か訳の分からない団体に入って、海外に行ったという事を聞きました。
 当時は今のように広報もなくあまり知れ渡っていなかったし、学生運動真っ盛りの時代で、なにか国がやっている事だということで、自衛隊みたいなもので、うさんくさい感じしか持っていませんでした。しかし結局、参加したのはただで海外へ、しかも2年間も行けるということが大きな魅力でした。卒業してそのまま社会人になってしまうのが、なにか味気なく思えたからでした。
 やっとのことで受験、合格し、3カ月の訓練にはいるとやはり思っていた通り、毎日の国旗掲揚・点呼や何かと言っては規則・規則で全体責任にされたりし、……現在ではこのようなことはなくなっているが……まるで軍隊か何かのような感じがし、よく規則破りで食事当番などをやらせられたのを思い出す。こんな訓練でしたが語学教育は素晴らしいもので、それまで10年間習ってきた英語(フィリピンの語学訓練は英語)ではろくにしゃべれなかったのが、たった3カ月の外人教師等による集中訓練である程度までしゃべれるようになり、いかに日本の語学教育がまちがっていたか痛切に感じました。
 この他にこの訓練で得た大きなものは、たとえ派遣国は違っても目的を一にする者が浸食を共にして得た友でした。いまだ多くの同期の友とは親しくし、うちの奥さんまでラオスOBの妹だということでもわかって頂けると思います。また帰国後OB会活動で知り合ったOB達とは、たとえ派遣国や年次は違っても、他の人とは違ってすぐうちとけ、何か互いに気持ちが通ずるようなところがあるように思えます。
 すでに帰国後17年にもなるが、うだるような暑さの中で運転していると、ふとフィリピンにいるような錯覚にとらわれることがある。23〜25才までのたった2年間の経験が、その後の自分の人生観とか行動様式などに大きな影響を与え、記憶の戸棚の中に大きな部分を占めてしまっている。現在も獣医師として畜産試験場で勤務しているが、残念に思えるのは、もし今の技術が当時の自分にあればもっと素晴らしいことができ、もっとフィリピンの畜産に役立っただろうということです。当時はあまり経験もなくただ、がむしゃらにやっていた感がするが、まあよくあのぐらいできたものだと、いまさらながら感心もする。
 それとたった23才ぐらいの若造が偉そうに相手を批判したり、時にはののしったりしたものだが、よくも耐えてくれたものだと今更ながら感心もし、恥じ入りもする。こちらで働いて16年にもなるが、当時彼らに批判したりしていたことが日本でも同じ様なことが一杯あり、そのたびに彼らにすまなかったという気持ちになり、結局は天にツバを吐いたのが自分に返ってきているのだとつくづく思わされる。とくに最初の1年ぐらいはよく日本社会(日本人)……社会人としてろくに経験もなく、また日本人というものをろくに知りもしなかったのに……と比較して悪くいってばかりいたような気がする。そんな自分によくもあんなに親切に付き合い、また仕事も一緒にやってくれたものだと感心するばかりです。今もし、逆の立場に我々が立たされたら、果たして彼らと同じ様にできただろうか。
 帰国隊員によく聞くことで、また自分もそうであったが、派遣中自分達が教えてきたことより、彼らから学んだことのほうが多かったということで、これは若かったということもあるが、彼らに今の日本人(社会)より素晴らしいことがより多くあるからではないかと思う。
 今日本人は物が豊かになるにつれ、伝統的な日本人の良さといったものや心まで、邪魔になるからといって一つずつ捨ててきたような気がしてならない。物の豊かさのみを追求するあまりに、何かに追われるように、そして2度と後戻りのできないところに、あてもなくひたすら走っているような気がする。
 今でも自分は牛の表情が、実に愛らしくのんびりしていて好きだが、水牛はもっといい表情をしている。けだるいような暑さの中で、道路脇の川でじっと気持ちよさそうに水浴びしている水牛と(水牛は農耕に使うとき、日中は必ず水浴びさせてやらないとバテてしまう)、ただそれを川端にしゃがんでぼんやり見ている農夫がいる、このような風景を見るとなにかホッとするような、実に自然と人間がマッチした素晴らしい光景で、あまり遠くない昔の日本にもこれとよく似たような素晴らしい光景があったのではないかと思われる。
 現在もOB会活動をやる中で、よく海外研修生や留学生達をホームステイさせたりしているが、これもフィリピンで自分が受けた恩返しみたいなもので、少しでも彼らのために何かができればと思うし、また子ども達の教育にもなると思って、奥さんには迷惑をかけています。


 麻薬戦争
                               Y・M
 南米コロンビアで2年間の任期を終え先日帰国いたしました。私の配属先は、首都ボゴダにある国立大学の音楽院で吹奏楽、アンサンブル、oboeの個人レッスンを主に活動して参りました。
 コロンビアといえば、89年8月に有力大統領候補であったガランが暗殺されたことをきっかけに始まった麻薬戦争で一躍有名になってしまった国です。さすがに89年8月から12月にかけての麻薬組織による、無差別爆弾事件は、JOCV側としても対処が難しかったらしく調整員の方から爆弾に気を付けてネ、という電話をもらうだけで(メデリン隊員は毎日爆弾のあるボゴダに避難)私達は「自分だけは爆弾にあわない」と思いこむしかない、運は運という毎日でありました。中には、歩いた10分後に爆発があったとか、家の横に800kgの爆薬が仕掛けられてあったのが、爆発前に発見されたとかに、遭遇してしまった隊員や専門家の方もいました。しかしあれだけ毎日続いた爆弾も12月にあった、DAS爆発事件を除いては、ほとんど人を狙ったものでなく、よくもあんなに人を死なせずにやるなーと感心する位人は巻き添えにならなかったようです。麻薬戦争のことでコロンビア人の多くは、麻薬組織が悪いとは言いません、彼らの中で覚醒剤を常用しているのは極限られた人たちだけで、買うアメリカや日本が悪いと言います。彼らのその言葉はTiene razon 理由ありで、発展途上国特有の貧富の差を解決できない、しない政府に代わって貧乏な人達にパンを与え彼らを助けていました。決して麻薬組織がいいとは言いませんが世界に悪名だけを響かせた麻薬組織にもこんな一面があり、それは現在の発展途上国にありがちな先に進むことだけを考える不合理からくるひずみなんだと思います。
 コロンビアは、標高差によって常夏、常春、常晩秋、変な言葉になってしまいましたが、1年中どこにも四季を見つけだすことのできるすばらしい国です。自然が生き、動物が暮らせる国です、心から平和になることを望んでいます。
 これからコロンビアに派遣される人に現在の状況を報告します。昨年5月の大統領選のあと、落ち着きを取り戻し麻薬組織の活動はまったくないといっていいほどです。ただ、麻薬戦争中に対策が手薄になっていたためゲリラが力をつけ、今年1月よりゲリラ活動が盛んになってきているようです、しかしこのゲリラ活動は、ジャングルやサバナでくり広げられるため市民の生活にはあまり影響しないようです。


   編集局より
 6月にOB会の総会があり、また海外から奈良県への研修生を迎えます。皆さんのご協力をよろしくお願いします。



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奈良県青年海外協力協会