ここは 「まほろば書簡 第13号」
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1999年 8月 1日 作成




まほろば書簡 第13号               1992年 2月17日発行



 マラウイ共和国の医療現場から
                               E・Y
 ほとんどの日本人が知らないこの小さな国にも看護婦がいる。レジスタード・ナースとエンロールド・ナースと呼ばれている。白衣の肩章と胸につけたバッヂの色で区別がつく。日本の看護婦制度のように教育期間が異なる。助産婦は、別に試験を受けて免許を得る。 この国の看護婦は、大変威張っている。看護婦の地位が大変高いのだ。非識字率の高いこの国で、高校または大学を卒業している。そして、給料が一般労働者の3倍位ある。仕事内容は医師のアシスタントと言うべきか。(この国の大学に医学部はない。)ひとくちに言って看護がない。医療水準が低く、看護まで至らないのだ。看護は、患者自らとその家族が行う。歩けなくとも、ぬれた廊下をはって処置室へ来る。手術後で意識がもうろうとしていようとも自らベッドを移る。これが、1カ月間働いた国立病院の現状だ。
 その後、村落部の病院へ赴任する。ここには医師がいないので看護婦が医師の業務を行う。ここで初めて医師の立ち会いのない分娩介護を経験する。(日本でも昔は産婆=助産婦がひとりで介助をした。)赤ちゃんや子どもや老人の診療や治療自分ひとりで行わなければならない。外科的なものはなんとかなるが、原因がはっきりしない内科的なものはお手上げの状態だ。しかし、何もしないわけにはいかない。患者が眼前にいるのだから。日本から持参した医学書や、現地で調達した治療マニュアルなどを見ながらの毎日が続いた。
 マラウイで体験した医療職の責任の重さとそれからくる緊張と不安、そして無力感・満足感・充実感を忘れないようにこれからの仕事を続けなければならないと思う。


   我が故郷 ホンデュラス
                              宮川秀雄
 我々7名がホンデュラス空港に降り立ったのは、9月12日、飛行機のトラブルで4時間遅れのメキシコ出発、その為、隊員としては初めての美しい夜景を経験しての着陸でした。到着してすぐの歓迎会、遅れた為、機内食を口にした我々でしたが、先輩諸氏の暖かい出迎えと沢山の御馳走に、感謝の気持ちで、無理して入る余地のないお腹に詰め込んだ事を思い出します。家族、職場の仲間に支えられ、やっと辿り着いた協力活動の地、ホンデュラス、その日から2年間、すべてが新しい経験の連続、多くの仲間と出会えた喜び、思ったより早く過ぎ去り、延長したい正直な気持ちを抑えての帰国、子ども達との別れがやはり一番の寂しさでした。
   私は国立医科大学付属病院の小児科病棟に配属になりました。第一に入院児童のケアー(学習指導、生活指導、余暇指導)、第二に外来障害乳幼児の発達検査、訓練、療育相談、第三に地方、特に僻地の障害児の実態調査、療育相談と、3つの仕事を中心に活動してきました。この場では経過、内容は書きません。ホンデュラスの医療、福祉、教育の貧困さを目の当たりにして、国際協力(援助)の必要性をさらに痛感させられました。いつも犠牲になっているのは弱い幼い子ども達でした。また外から日本を見ることが出来、日本の豊かさを見るにつけ、本当の豊かな社会とは何なのか、日本国民が求めている豊かさに疑問すら生じました。
現在、復職(障害児の収容施設)しております。仕事をしながら、ホンデュラスの貧しい子ども達に手助け出来ることは無いものかと模索中の毎日です。
 まとまりのない文章で申し訳ありません。OB会の活動のお役に立てるよう努めるつもりです。御助言、お力添えの程、お願い申し上げます。


   インドネシアより
                               E・N
 インドネシアと聞くと皆さんは何を想像されるでしょう。年輩の方ならバタビアという名を、若い人ならバリ、プロウ、スリブといったところでしょうか。現在私の着任にしているのはこのインドネシアです。インドネシアは主な5つの大きな島と数百にも及ぶ小さな島からなる群島国家です。私の任地はその中でもマレー半島に近いスマトラ島のほぼ中部、地図で見るとちょうど赤道直下に位置しています。そこのジャンビ州の中心コタ・メディアにて現在活動中です。中心地とはいえ小さな田舎町で一時間もあれば街を一通り見て回れます。元々の原住民はジャンビ人ですが、現在政府の移民政策によりジャワ島より移民が多く移住していますし、中国系の華僑も多く州人口の5%はこの中国人が占めています。この中国人が経済を握っており街の店は殆ど中国人によって経営されています。このような田舎ですから外国人など見たこともない人が殆どで、ましてや日本人なんて…。ただ高齢者の中には戦争中日本語を習った、と片言の言葉を話したり、なぐられたことがある、バカヤローとよく言われたーなど戦争の爪あとがまだ残っている一面も見られます。 現在このインドネシアでNHKのはね駒が「おりん」という名で放送されており大変な人気です。(少し前はおしんでした。おしんは字幕スーパーでしたが、おりんは吹き替えられています。)しかし、おりんの世界そのままが日本の姿と思っている人も多く見られます。その度に説明するのですが想像しにくいようです。彼らは、日本といえば東京、広島、長崎しか知りません。東京以外はインドネシアと同じでジャカルタ以外の田舎なようなものだと思っているのです。又、インドネシアでは実際本当に多くの日本製品を見かけます。ノート、ボールペンに至るまで日本製なのです。ですから彼らにとって日本は非常に近い国としてとらえています。
 この国では、私達協力隊の事はまだそれほど知られていません。活動が始まってまだ4年目でほとんどの隊員が初代隊員、悪戦苦闘の毎日です。今年は乾季が例年よりも長く水不足が続いていました。空気も乾燥し焼き畑による煙及び浮遊塵は視界をさえぎり、その為空路は閉鎖、陸路は時間がかかるため長らく郵便物さえ届かず、すっかり陸の孤島と化していました。それでもここは年中穀物や野菜があり、飢えによる苦しみを見ることは有りません。その分皆のほほ〜んとしており、時間さえゆっくりと流れていくかのようです。
 私は今この地の総合病院で看護婦指導員をして活動していますが、この地の人々の衛生観念の低さには驚いてしまいました。それは一般住民のみならず医療従事者についても同じです。これからこの人々とどのようにやっていくか、まだまだ試行錯誤の毎日ですが、何か一つでもここの人々が覚えてくれるものが見つかればいいな、と思いつつ残りの任期をすごそうと思います。


   フォスター・チャイルド短信
 OB会のフォスター・チャイルド、タイの少女パイリンは9才になり3年生です。学校でよく勉強しているとの事です。送られたお金はパイリンの家族のためだけでなく、その地域に住む人々の生活向上のための水道設備の敷設等にも使われています。
 12月にパイリンの近況としてフォスター・プラン協会から連絡がありました。パイリンの住む地域から、協会が1993年に引き揚げることを決めています。協力を継続していく事の難しさをマクロにもミクロにも考えさせられます。


   編集局より
 昨年の6月に発行して以来、夏眠と秋眠を経て冬の終わりにようやく目覚めました。情報を十分に伝えられなくて申し訳ありません。春に向けて体験集作りも動き出しました。3月20日の帰国報告会(一般公開)と留守家族懇談会に多数の参加を。



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奈良県青年海外協力協会