ここは 「まほろば書簡 第15号」
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1999年 8月 1日 作成




 まほろば書簡 第15号              1993年 5月31日



 現地人との交際
                               Y・K
 交際といっても決して妖しげなもので無く、同僚や友人から週末に招待されるが、こんあことがあった。
 招待される前日の金曜日に本人のバアサマが亡くなった。私は、当日は葬式の準備や色々と忙しいものと早合点し、その日は彼の家へ行かなかった。月曜日に出社すると彼は、「どうしてお前は約束したのに来なかったんだ!」と怒りだし、私は「葬式がどうのこうの……。」「大変だっただろう……。」と訳の解らぬ事を口走っていたのである。
 どうも日本と勝手が違うのである。
 別の友人に「ホ−ムパ−ティ−をするから来ないかい?」と誘われ{ホ−ムパ−ティ−+家族÷5−2……=気軽!}という浅はかな考えのもとに快く、「OK!」と答え、翌日私は、短パンにサンダルという軽装で彼の家へ向かったのである。しかし、男性はス−ツにネクタイ、女性はドレス、「ア−ッ、慣れないことはするもんじゃない。」とわが身を省みつつ、考えの浅はかさを嘆き、足下のサンダルに目を落とすのである。
 協力逆効果
 学生時代は、決してお世辞にも優秀で勤勉な学生で無かった私が異境の地で授業を持つとは夢にも思わず、授業開始にあたり徹夜で技術書を開き、辞書をひもといたのは言うまでもない。そんな私が、生徒に満足な授業が出来るわけがないのであるが、一通りの講義の後で、摩訶不思議にも私の貧困な英語を理解する想像力豊かな?生徒が3〜5人(全生徒19名)はおり、彼らをアシスタントに実技指導を行うという授業を行った。
   余談 私の授業で90点以上を取り授業を助けてくれた想像力豊かな?3人の生徒は、なぜか数学や物理が不得意で、進学時に落第してしまい、私は、これを「協力逆効果」と名付けてインド洋よりも深く反省する日々を送っている。


   「外国」、日本にて
                               Y・Y
 私はまるでどこか知らない外国へ旅行に来たように成田空港に着いた。2年間の任期半ばに東南アジアを、そして任期終了に際して今度はヨ−ロッパを一人列車で旅してきた。旅行先からバンコクのドンムアン空港に着いたときやれやれやっと帰ってきた、という気持ちになり安心した。成田に着いたとき、まったく要領を得ずおどおどしていただろうと思う。日本語を話すことにこれほど意識的になったことはこれまでになかったし、おそらくこれからもないだろう。話す前に、これから言おうとする文句を頭の中で反復する、それから意識して口を動かしてゆっくりとはっきり、相手がわかってくれるだろうかという不安を抱きながら発音するのである。タイにいたときもしょっちゅう日本語は話していた。。しかしそれは仲間うちでのことである。「最近マムアンがたくさn出てきたねえ。」などと世間話をしていた。決してマンゴ−ではない。私たちはタイへ行ってほとんど初めてそれを見、さわり、食べて、タイ人からこれはマムアンであると教えられた。マムアンはマムアンである。しかし日本でそれについて話すとき、マムアンではもちろん通じないので、マンゴ−と和訳してから話さなければならない……。
 日本に帰ってくると、タイはマスコミでいろいろ話題になっていた。不法滞在、売春、エイズ……。これでは、普通の日本人にとって、タイと聞けばおそらくそういう事柄がまっさきに頭に浮かばざるを得ないだろう。しかし私は、そういうことではなく、夕飯のおかずを買う人でにぎわう田舎の市場(品物にハエがたかっているばかりではない)や乗り合いバスで立っている乗客の荷物をすわっている人が持ってあげるようす(他人のものをひったくるばかりではない)やよく食事にさそってくれた人たちのこと(先進国に開発援助資金を要求するばかりではない)が思い浮かぶし、これからもずっとそうだろうと思う。


   中国での生活から
                                  K・O
 今、日本で生活をしていると、協力隊で行った2年間が、どの時代を思い起こすよりもいつも先に思い出させることを知る。
 私の任地は、中国の南方にある地方都市で市の就業センタ−でした。ここで、洋裁を指導していたわけですが、日本の原型と型紙を使用する事に、当初不安を感じていましたが、やはり2年間の大きな課題となりました。中国では、直接生地にサイズを書きこむという直裁ちの方法を専門家の人でさえ、実際に取り入れています。それを根本から変えるわけで、大袈裟に言うと、習慣性に変化をつけるのです。工場の場合や量産になると、直裁ちの方法は不可能になります。しかし、センタ−で対象とする人は、個人の服を作る人ばかり、年齢層もさまざまで、状況的には無理を感じずにはいられませんでした。私は日本で工場パタ−ンであったためそのように感じたのかもしれません。「不容易」容易でないという言葉が教室中をかけめぐった時もありました。授業中は原型を使用しているが、宿題の洋服はそうでなかったりして、こんな時はなんとなくがっっかりしそうになった事を覚えています。又、3ヶ月間と時間を決められているため、あせりもありました。「どうしたらわかってくれるか。」といつも悩んでばかりいたように思います。しかし、彼女たちの黒くやけた笑顔を見ていると、「メイクワンシ」(気にする事はないよ)と行っている様で、はげまされました。
 日本の技術を教えるという一種の驕りが、私にはあったのでしょう。今思えば反省する事ばかりで自分の認識のなさや、勉強不足だった点など多くの事を彼女たちが私にこそ教えてくれたように思います。それぞれの国のスタイルが異なり、私達に対していろんな見方があるでしょう。でも、日本らしく日本らしさを出すことが、お互いを知る術なのではと思い知りました。
 任国中国は旧暦の正月が新しい年の始めになります。これは”春節”と言い一年のうち一番賑やかな日でもあります。春節の前日は日本の大晦日と同じ様で、街は買物をする人達が行き交いものすごい活気にあふれます。里帰りしてまた家族達へのもてなしをするため、すごい量の買い出しです。又、テレビ放送は夜通し行われる様で、日本の紅白歌合戦の様な歌番組に家族はくぎづけです。そして零時になるといっせいにバクチクが火をふいてものすごい音を出します。戸外では花火が飛び交い、けたたましい音です。招待してもらった家の玄関に3mのバクチクが2本あり、鳴りはじめると心臓と耳のこまくがやぶれるかと思いました。2回目の春節の時は花火ぜめにあい、ものすごい煙で目が痛かった事を覚えています。春節には、日本同様お年玉がつきものです。日本とちょっと違う点は、赤い封筒にお金を入れる事です。
 中国の正月は、子どもの頃のなつかしい時間を過ごした様な、そんな感じだった事を覚えています。そのほか中国のいろんな祭りと言っていいのでしょうか、風習があります。月見もその一つで「月餅」という甘いまんじゅうを食べる”中秋節”があります。この中秋節の夜、月見を家族で楽しみます。漓江(任地桂林の川)の水が月に照らされ、、白くかがやき、象の形をした象鼻山(桂林のシンボルとされる山)の洞穴を通してみた月は幻想的でその場を離れられなかった事を今でも思い出します。
 風習と家族そして自然の法則を大切にする人達、いつまでもそうであることを願いたいです。


   編集局より
 *今後の予定
  6月12日(土) 青少年21世紀セミナ−(来年の2月まで年間4回)
   詳細は別紙をご覧下さい。OB・OGの方々のセミナー運営への協力、参加をよろしくお願いします。セミナ−に参加する奈良県の中高生の文通相手を探しています。任国の子どもなどで文通が出来そうな人をご存じでしたら、至急OB会の反田会長まで連絡ください。
 10月16日(土)17日(日) 「国際協力の日」記念フェスティバル 大阪城公園
 *今回も「まほろば書簡」を無事発行することが出来ました。寄稿などのご協力をよろしく。みなさん、総会でお会いしましょう。



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奈良県青年海外協力協会