ここは 「まほろば書簡 第16号」
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1999年 8月 1日 作成
まほろば書簡 第16号 1994年 2月 8日発行
海外生活から帰国して
I・Y
日本に帰ってきて、この冷夏にも驚いたが、一様にコミック週刊誌を手にしている同世代以下の若者にも驚いた。3年前、フィリピンへ出かける前の自分もその様だったのかと今思う。
フィリピンで、特にマニラでは他の日本人をよく見かけた。日本食レストラン等で彼らは互いに話し相手がいるのに、雑誌や新聞に目を落として、だまって食事している姿をよく見かけた。また、私自身、フィリピン人の同僚から
「何故、彼らは話し相手がいるのに、相手と話をせず雑誌や新聞を読みながら食事をするのか、それが楽しいのか。」
と聞かれて答えに困った事が有った。私も何かを読みながら食事をしたことはあるし、学生だった頃はよくコミック雑誌を読みながら食事をした覚えがある。
詳しく調べたり、統計を取った訳ではないが、日本では、出版物を目にする機会が多いと感じる。また、書店の数も多いと思う。今、自転車を使っていける範囲に数軒の書店を私は知っている。私が赴任した場所は都会でこそなかったが、取りたてて言うほどの田舎でもなかった。停電が頻発したものの、電気はあったし、少し行けば電話もできた。それに、24時間営業のガソリンスタンドまで有った。しかし、書店は無かった。一番近い書店はオ−トバイに乗って街(村と言った方が適当か?)を出て、国道(ハイウェイと呼んだ)を1時間ばかり行った州都に1軒、文房具店兼書店があった。それも書店と呼ぶより文房具店と呼んだ方が通りは良かった。
書店の数が少ないからと言って、彼らに書物に対する関心が少ない訳では無いし、読書に価値を感じていない訳でもない。
私なりに観察した結果、自国語による出版物が少ないということに気付いた。特に、学術書などは欧米から輸入された物が多く、高校や大学の教科書の多くは英語による物であった。それでも特に不便さはなく、英語教育は小学校の低学年から始まるので英語の普及は広い。
私のある日本人の同僚は
「日本の出版物文化というのは他に類を見ない。」
という様な事を言っていた。様々な国の出版物文化を見て来た訳ではないので断言できないが、それでも、日本の出版物文化というのはすごいと思う。書店の数、書物の種類、量、特に様々なジャンルにわたる雑誌類には本当に驚いている。
書物、雑誌の主な原材料は紙である。紙の原料はパルプである。言うまでもなく、パルプのほとんどは輸入された物である。強大な購買力を持つに至った高度に成長した経済、経済大国故に発展が可能であった出版物文化であるのだろうかと今、感じている。
2年間の活動を終えて
H・K
私は91年9月より南米ボリヴィアの東部アマゾン大平原に位置するトリニダ市で、孤児院や働く子どものための施設に配属されました。最初の3ケ月は活動の方針が見いだせず、配属先にも青少年活動という職種が理解されず苦しみました。現地の子ども達は豊かとは言えないが日々の生活に困ることなく私が想像していた現地象とのギャップに、日本で「あんなことをやろう」とか「こんなことに挑戦してみよう」と考えていたことが根底からくつがえされ、早くなにか活動をしなくてはという焦りで、「私はここに何をしにきたのだろうか?全然だれも困っていないし、私を必要としていないじゃないか!」と落ち込んでいました。これはもっと後になって解ることだが自分の中の甘えと国際協力をやりに来てやったというおごりでした。
その年の12月にペル−からコレラが入ってきて社会問題となり、子ども達に分かりやすくコレラを理解してもらおうとコレラ予防の人形劇を制作したサンタクロ−スの衣装も自分で作り得意のレクリエ−ションゲ−ムもおり混ぜ、クリスマスに市内のあらゆる子どもの施設を回りました。この活動がきっかけで上司や同僚にも理解されるようになり、2年間の足がかりが出来ました。その後、全国に公演に押しかけたり、テレビ放映されたり、たくさんの人が集まる市場で公演したりと発展しました。ヒントはどこにでもころがっているものだなあと思いました。そうして今度は自分だけで作るのではなく、子ども達にもせりふの吹き込みや人形の操り方などを教えて子ども達のオリジナル作品を作り、テレビに取材に来てもらったり(人形劇が珍しく田舎のテレビ局は頼めば来てくれる)施設の中で公演したりしました。子ども達も見ていた人形劇を後ろから操れるとあってうれしそうでした。
人形劇の他には折り紙教室やピ−スコ−(アメリカノボランティア団体)の人とサッカ−大会を企画したりしました。現地では日本への出稼ぎブ−ムで多くの人が日本に幻想に近いイメ−ジを持っており、文化や習慣の紹介にも努めました。例えば7月7日に七夕の話をしてあげて、みんなに短冊を配り願い事を書いて笹がないので施設にある木につりました。高いところに自分の短冊をつろうとするのは予想外の反応でした。孤児院では畑仕事やニワトリの世話を子ども達といっしょにしていました。
2年間の活動を終えて、教えに行ったはずが教わることばかりで、家族の一人として扱ってくれた下宿の家族や同僚などの現地の人だけでなく手紙で励ましてくれた日本の友達などたくさんの人に支えられて本当に楽しく過ごさせてもらいました。私は技術を伝えるエンジニアでも、人にものを教える教育者でもありません。そんな私が国際協力という肩に力の入った大それたことにチャレンジして感じたことは、「なにが最も人にとって幸せなのなのだろうか?。」つまり、先進国の技術を移転してその国が経済的に発展することだけが幸せだろうか、それよりも与えられた環境の中で自分たちの文化を守りその生活に満足して一生を終える方が人間的に幸せではなかろうかということを感じました。餅路、日々の生活も営めない厳しい環境もあり助けを必要としている国もあるでしょうが、あくまで私が見て生活したボリヴィアのトリニダという町で感じたことであり、それが苦しい時でも笑って陽気に済ませるラテンの気質の様な気もします。そういう意味ではすっかり私はボリヴィア人になってしまい、時刻表どおりに出る電車やひたすら笑顔も見せずに会社へ向かう人やス−パ−に並ぶおびただしい数の商品に圧倒されて逆カルチャ−ショックになりました。
最後に、あのボリヴィアの小さな町で出会えることのできた子ども達が記憶のかけらにでも「おもしろい日本人がいたなあ」と大人になっても覚えていてくれたらこれ以上私にとってもうれしいことはありません。いつの日か、それはいつになるのか分からないが、もう一度私が2年間生活した町を訪ねてみたいです。
編集局より
立春が過ぎ春が近くにきていますが、まだまだ寒い日が続くのではないでしょうか。ここ数年協力隊に参加する奈良県出身の人が増えています。地域の国際化のためにはいいことです。しかし、OB・OGが増えると横のつながりが希薄になることにもなりかねません。今後、OB会の活動内容を検討していく必要があるでしょう。
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奈良県青年海外協力協会