ここは 「まほろば書簡 第17号」
http://www.sikasenbey.or.jp/~jkobi/mahoro17.htm です。
1999年 8月 1日 作成




 まほろば書簡 第17号              1994年 7月 9日発行



 ケニアでの活動に思う
                               A・S
 ケニアがイギリスの植民地支配から解放され、独立をかち取ったのは1963年のことである。それから31年、しかし今でもその植民地時代の影響はケニアのいたるところで根強く残っている。例えばケニアでは英語が広く使われるし、国会の開会時や大統領の任命時には、イギリスの方式にのっとり、任命官は金髪のかつらを着用している。昔、学校の音楽室で見たハイドンの絵にあったようなウェ−ブのかかった金髪、それをかぶったケニア人というのは滑稽である。庶民の主食であるトウモロコシにしても元はイギリス人が家畜の飼育用として持ち込んだものであるというし、代表的な農作物のコ−ヒ−や紅茶もそうである。キリチョ−地方を訪れると、紅茶畑が延々と広がっている。幾つもの山の斜面を覆いつくすその景色には圧倒されてしまうが、視点を変えればそれだけの労働が当時のケニア人に強いられたということである。そんな労働力の搾取は今でも続いている。コ−ヒ−畑や紅茶畑では、彼らは一家総出で働いている。おばあちゃんから5歳の孫娘まで、大きなかごを背負い茶摘みに精出している。しかしそこでの労働賃金は1キロの紅茶の葉を、或いはコ−ヒ−を摘んで、それを村の共同集積場まで運んで2シリング(約4円)である。日本ではそのコ−ヒ−が100g500円で売られているのだから驚きである。政治的には植民地支配から脱却して経済的にはまったくもってそこから抜け出せない構造がある。それが南北問題なのだ。
 私が勤めていた学校の生徒にイギリスの植民地支配について質問したことがある。私の予想に反して彼の答えは「植民地支配を受けたことは我が国にとって良かった。」というものだった。「イギリスによって多くの進んだ文化がケニアにもたらされた。英語もそうであるし、鉄道を敷いたのも彼らだ。」と彼は言う。しかし鉄道敷設の際に多くのケニア人が命を落としたのも事実であるし、ライオン等の野生動物と戦った勇敢なケニア人の話は今でも語り草である。
 もちろん進歩的な考え方を持つケニア人もいる。世界的に有名な作家であるングギ・ワ・ジオンゴは一切の作品で英語を用いず、自分たちの母語であるキクユ語を用いると宣言している。「キリスト教やイスラム教は外からもたらされた宗教だから自分は先祖伝来の宗教を信じる。」という人もいる。
 隣国のタンザニアは英語から脱却することを目指し、スワヒリ語を国語と定めた。資本主義経済をしき、観光収入と外国からの援助に頼るケニアが、同じ道を進むことは難しい。また多くの開発途上国が共通に抱えているように、この国の輸出品が第1次産物であることも安い労働力を他の先進国に提供するという産業構造から抜けきれない一因である。
 ロンドンで大英博物館に寄った。確かにそこで展示されているものは人類の歴史を語るうえで貴重なものばかり、その展示物のすばらしさには目を見張るばかりであった。しかしそれも言い換えれば当時のイギリスが搾取の限りを尽くしたという証拠である。私たち先進国の繁栄はそのような多くの開発途上国の犠牲の上に築かれてきた、その反省が私たちの活動の根底にあるべきだと思う。


   2年間を振り返って
                               T・Y
 フィジ−は最近、観光で日本人に知られるようになった国だが、私が、ここに派遣される前までは、青い海と珊瑚礁と、リゾ−トホテル位しか、思い浮かぶものは無く、この国で、どんな人達がどんな風に暮らしているのか、考えたこともなかった。フィジ−には毎月2000にんぐらいの日本人観光客が訪れるが、私が住んでいたスバ(首都)では、あまり日本人観光客を見かけなかった。しかし、ある特定のリゾ−トホテルに行けば、そこは、日本人であふれている。結局この人達も、フィジ−に来る前の私と同じように、フィジ−には、きれいな海とリゾ−トホテルとにしか興味が無く、それだけを見て、フィジ−を知ったつもりになって、帰っていくのだろう。
 私の住んでいたスバは、人口約7万人の、南太平洋諸国の中では大都市で、都市住民の所得も高く、町中は車でいっぱいである。また、商業が発達していて、ものは豊富で日用品、電化製品など、日本食も含めて手に入れることができた。私のいたオフィスは、スバ郊外の小高い丘の上にあって、よく晴れた日には、真っ青な海、珊瑚礁、少し遠くには椰子の木の生えた小島がよく見えた。私は2代目の隊員として、ここフィジ−地方電化省エネルギ−局に配属された。私のすべき仕事は、定期的に統計局や石油元売り各社、電気供給会社等からデ−タを集めてエネルギ−・デ−タ−ベ−スを作成し、そこから表やグラフを加工することであったが、エネルギ−局側からすれば、私は一人のスタッフとして期待されていたようで、私のすべき仕事は、ほとんど手付かずのまま置かれていた。前任者も一人でその仕事をしていたらしく、スタッフに聞いても彼らもあまり理解しておらず、エネルギ−・デ−タ−ベ−スは、コンピュ−タを扱う隊員にありがちなブラックボックス状態になっていた。コンピュ−タのハ−ドディスクの中にある200近いデ−タファイルと、1つのファイル内にもいくつもの表が入力されていたので、どこから手を着けて良いのかさえわからず、途方にくれていた。
 初めのうちはパソコンの使い方さえわからず、何とか仕事ができるようになるまでに、言葉の問題もあって結局1年ぐらいかかったように思う。それまでに、ハ−ドディスクの内容を全部消してしまったり何をやっていいのかわからず、一日中ただ海をぼぉ−っと眺めていたこともあった。結局、1992年度のエネルギ−年鑑を発行し、1993年度の下書きを終えたところで2年が過ぎてしまった。
 さて、私は仕事としては、ずっとオフィスにいて、現地の生活に接する機会はあまりなかったが、個人的には、よくフィジ−人の村や、インド人の家に行ったりした。エネルギ−局の局長は日ごろ私には、、「職場に居るより、村に行ってフィジ−の現状を見てくれ」と言っていたので去年のクリスマスから、3週間フィジ−人の村に行った。フィジ−の首都のスバから昔、瀬戸内海航路で使っていた。「第1オリ−ブ丸」と書いてある船で約20時間かかって、フィジ−のはずれにある島に着いた。かつてトンガ領だった島であり、今でもトンガ人が少し残っている。そこには、自給自足に近い生活で、昔ながらの酋長を中心とする村社会だった。フィジ−でも、地方の若者達はスバに働きに出ていて、日ごろは静かな所だそうだが、クリスマス休暇には若者達も、故郷に帰ってきて、村は賑やかになる。彼らに聞くと、「スバよりここの方が良い。」と言う。この言葉、今協力隊がフィジ−で活躍する上でのヒントになると思った。


   編集局より
   7月に入り、暑い日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。原稿を送っていただきながら、紙面の関係で掲載できなかったのがあります。次号に回させてもらいます。皆さんのご協力で紙面を充実できればと思いますので、寄稿をよろしく。



まほろば書簡 目次へ


奈良県青年海外協力協会