ここは 「まほろば書簡 第5号」
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1999年 6月28日 作成
まほろば書簡 第5号 1988年11月 5日 発行
海外青年受け入れを機に思うこと
M・T
8月はじめ、東京での国際青年の村を終えた欧米5ケ国、25名の歓迎レセプション、シルクロード博見学、2泊3日のホームスティを少々手伝うことになりました。
第1回の実行委員会で反田会長の「手伝ってあげるよォ」という甘いお言葉にそそのかされて実行委員長を気軽に引き受けたところ、後で委員長の最大の仕事はレセプションでのスピーチであることが分かり、愕然としました。けれどもいじっぱりの協力隊OGの事ですから後にも引けず、スペイン語なまりの英語でスピーチしました。国連のデクレアル氏はたしかペルーあたりの人ですが(間違っていたらすみません)、ああいったなまりの英語です。
さて実を言うと、私は国際化という名のもとに華々しく繰り広げられるレセプションに少し空しさを感じていました。行事そのものを否定するのではありません。これはこれで得るものがあります。
余りに時間に追われ、世界中の情報があふれ、それでいて目の前しか見えていない今日の日本において、私たち協力隊OBが出来ることと言えば、デモンストレーション的な派手なことだけではないはずです。自分自身で時間をコントロールし、あふれる情報の中でより正確なものを収拾、整理し目先のことにとらわれない長期的視野を示していく。それをどういう形で社会にアピールしていくかは個々にかかってきますが、いずれにせよもっと地味な活動の積み重ねになるのではないでしょうか。
民泊の受け入れをして
小尾二郎
8月5日から7日まで、私の家でアメリカ人2人を民泊で受け入れました。外国人の泊は、2年前の東南アジア青年の船の一行以来2度目です。今回は、国際青年年以来毎年夏に日本で行われている国際青年の村への参加を終えた青年たちです。偶然か、意図的にか、奈良へは欧米の先進国ばかりでした。
先進国の民泊の受け入れの家庭は多いが、発展途上国の受け入れは少ないという話を聞きます。偏見の一つの表れだと思います。私は協力隊に参加後、途上国の人の方が抵抗なくつき合えるようになっています。逆に先進国、中でも英語を母国語とする国には、私が英語が下手だと言うこともあり、なんとなく抵抗がありました。
さて当の民泊ですが、彼らとはホテルでの歓迎会やシルクロード博への案内ですでに顔を合わせてましたので、私の家へ来てもある意味で楽でした。民泊で一番気をつかうのが食事です。日本的で、抵抗なく食べられるものをあれこれ考えました。生ものは避けることにしました。母が全部してくれましたので、大変だったと思います。ただ、アメリカでは日本食は豊富で、寿司や刺身が好きだと一人は話していました。
奈良の案内では、OB会長にお世話になりました。2日間の行動で、他の家庭の外国人青年も含めて5人の外国青年が一緒でした。6日には、奈良の田舎と長谷寺、夜には盆踊り。7日は、会長の職場である高校の訪問。授業を見学し、生徒さんと交流をしました。生徒さんと会話や折り紙をし、たくさんのおみやげを生徒さんからもらって喜んでいました。考えてみれば、私は何もしていないことになりますね。
民泊をした2人がアメリカで、国際交流や青少年活動の専門家で、年齢も30歳前後と高いこともあり、堅い話題もありました。彼らが語るアメリカの悩みの中に人間社会が持つ共通のものを感じました。また、日本の家でなぜ靴を脱ぐのか理解していないみたいで、靴を脱いだまま上へあがらずにその辺りをうろうろということもあり、文化の違いを感じるときもあり興味をそそられました。
英語の洪水に悩まされながらも、楽しく充実した民泊の日々をどうやら無事過ごすことが出来ました。会長以外に、6人のOB・OGにもお世話になりました。
2年間の協力隊活動を終えて
T・K
スリランカへの派遣が決まった時、私の頭に浮かんだものは、青い空、碧い海、そして限りなく続くココナッツの木であった。実際カトナヤケ空港上空よりその景色を見たときの感動は今も忘れられない。スリランカに”アーユボーワン”という言葉がある。これは「こんにちわ」「さようなら」両方の意味があるが、まさにこの時「スリランカ、アーユボーワン(こんにちわ)」であった。
スリランカでの生活は、今の日本人が忘れつつある人と人とのふれ合いを教えてくれた。例えば、両親を尊敬し大切にする子ども達、一生付き合える親友を沢山持つ青年達、困っている人を見ると手助けする村人達。私自身多くの親友、多くの助けがあったからこそ2年間無事過ごせたと、彼らに大変感謝している。
私の配属先は、体育教員養成学校であり、そこで運動生理学と体育実技を指導した。実技は、体育の楽しさを理解し実践してもらいたいと願いレクリエーション中心に行った。生徒達は20〜23才であり、私とあまり変わらずいつも教師と生徒というより友達同士という付き合いが出来、よりスリランカ社会、人々の中にとけ込むことができ幸運であった。彼らと旅行したことや、一緒によくジョギングしたことなどは良き思い出である。
現在も内紛が続くスリランカではあるが、一日も早く平和な社会を回復させ、いつまでも”インド洋の真珠”と呼ばれる美しい国であってほしいと願っている。あんなに美しく輝く瞳を持っている人々である、出来ないはずはない。
2年間の活動中色々あったが、心残りなくカトナカケ空港を飛び立つことができ、気分は気分は爽快であった。
アーユボーワン(さようなら)スリランカ。
故佐久間隊員の墓参
10月29日に五條市出身の故佐久間隊員(57年3次隊 バングラデシュ 自動車整備)の墓参をしました。当日、佐久間隊員のお父さん、東京の事務局から佐久間隊員が任期中の駐在員であった石川満男氏、奈良県OB会より反田会長、浜辺、清水、菊田、阪本、新、小尾、川西の各OB・OGが参列をしました。
故佐久間啓二隊員の略歴
昭和26年1月9日生、昭和42年3月県立高等職業訓練校卒。
昭和42年4月より昭和57年9月の青年海外協力隊参加までの15年余りに上田モータース、日駐整備工場、紀ノ川自動車に勤務。その間にケニアへサファリラリーの見学旅行をする。
昭和58年1月22日青年海外協力隊々員としてバングラデシュに派遣される。
昭和59年10月6日発病。同月22日帰国。
昭和59年11月16日急性肝不全にて死亡。
編集局より
秋が深まって冬の気配が感じられるようになってきたこの頃です。風に舞う落ち葉に無常を感じたりするものです。任期途中で亡くなられた佐久間隊員の冥福を祈りたいと思います。
OB会の自由な意見交換の場ですので、寄稿やご意見を待っています。よろしく。
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奈良県青年海外協力協会